BJクラブ英会話

    楽しく、しっかり身につける英会話

BJクラブ英会話 東広島市 西条 (西条土与丸) | 祥子のブログ

32:クリスマスパーティー 〜恐怖編〜

店舗を持った最初の冬、教室でクリスマスパーティーを開催した。

当時、生徒さんは大人だけだった。大学生が多かった。

お酒を買い込み、カクテルを作ってだしたりした。

ダーツやゲーム等で盛り上がっていた。

真夜中過ぎに、二人の男女が床にゴロンとなっていた。

ただの酔っぱらいかと思いきや、事態はもっと深刻だった。

呼びかけても反応はなく、口から泡をふいていた。

新品のカーペットはシミだらけである。が、そんな事を言っている余裕はなかった。

慌てて救急車を呼んだ。

助けを待っている間、私は色々な事を考えた。

この子たちに万一の事があったら。。。私のせいだ。。。。

BJ
クラブもこれで終わるのか。。。

二人は搬送された。

事情を説明し、病院で治療をしてもらった。

急性アルコール中毒だった。

点滴が終わる頃には、二人とも普通の人になっていた。

後に看護士さんにこってりお説教されたそうだ。

とにかく、無事でよかった。

泡をふいていた男の子は、今や2児の父親である。

子ども達は泡ふくお父さんを想像できるだろうか?

いや、想像できるようでは、困る。

その後、パーティーは教室では二度とすることなく、居酒屋で開催している。

31:黒い部屋

BJクラブを始めて1年と2ヶ月がたった頃、家賃とパートタイム講師の給料が、生徒さんからの受講料で賄えるくらいになっていた。

(勿論自分の収入などない。)

家賃が安くて場所が良い所、と暫く探していると、見つかった。

現在、BJクラブが入っているビルだ。

ビルは古いが中を綺麗にすれば、なんとかなるだろう。。。

大家さんは、中は自分でリフォームしてくださいと言った。

壁と天井はタバコのヤニで黒く、床のタイルは半分くらいはがれていて、ドアには以前入居していた会社の看板が残っていた。

トイレの便器は真っ黒で、入り口とキッチンのドアは、色褪せてはがれていた。

夜逃げした後の、荒れ果てた事務所の一室のようであった。

それでも、なんだかいい予感がして、即契約を交わした。店舗の敷金は家賃の5ヶ月分と割高だった。

他にも最低限必要な家具もそろえたりしたので、開業資金はみるみる減っていた。

教室の壁とドアはペンキで塗った。サラリーマンの夫は、週末率先して手伝ってくれた。全ての壁を塗るのはかなりの作業だった。

床はさすがに素人には無理だったので、業者に依頼してカーペットを敷いた。

看板は、日曜大工の店で道具を調達し、自分で作った。

教室の間仕切りは、棚をおいてとりあえず間に合わせた。

こうしてなんとか、BJクラブ英会話は消滅の危機を回避し、居場所を見つけた。

30:夢、丸投げ未遂

開業してから何日たっても何ヶ月たっても、あまり人はこなかった。

毎日暇だった。

このまま続けて何になるんだろう?と思った私は、就職先を探した。

どんなにもがいても改善されない現実から、逃れたかった。

まずは某大手英会話学校が常勤講師を募集していたので応募した。

面接と英語のテストを受けた。

結果は不合格だった。

英語のテストは完璧なはず。人当たりも悪くないと思っていた私には、腑に落ちない不合格だった。

次は企業の通訳で応募した。

とんとん拍子に話が進み、最終役員面接を残すだけとなった。

その段階に来て気付いた。

私がやりたい事は何だったんだろう?

このまま長年温めてきた夢を諦めてもいいのか?

自問自答を繰り返した後、私はBJクラブ継続を決意した。

その後長期に渡り続く氷河期を知ってか知らずか、心はやや沈んでいた。

29:閑古鳥鳴く

まずは店舗を構えるのではなく、西条駅近くのサンスクエアの貸し教室でレッスンを行う事にした。

店舗の賃貸料は高いし、土地勘も無く、良い物件がすぐに見つからなかった。

サンスクエアなら、使用する時間だけの料金を払えばよかった。

それが吉とでた。あの時店舗を最初から借りていたら、300万円の開業資金はみるみるなくなり、半年後には廃業となっていただろう。

外国人講師は、同じアパートに偶然住んでいた大学の先生にアルバイトで来てもらうことにした。

広告は地方紙リビングに小さいのを5回くらいだした。

小さいといっても1回の広告は5万円する。

自宅の電話がBJの番号となったが、かかってきたのは数件だった。

下手なパソコンでチラシを作り、コピーをして西条プラザの前で配った。

皆怪訝な顔をして私を見たし、ひっきりなしに人が通るわけでもなかったので、30分位突っ立った後挫折した。

どっと落ち込んだ。

6月6日から数回にわたり無料体験レッスンを実施。

参加者数名。

6月末の生徒数は大人3名。

でもまだ始めたばっかりだし、とその時はそんなに危機感はなかった。

28:BJクラブ英会話誕生

約束の3年が終わる頃には、もうカナダへの未練はなかった。日本へ帰って念願の英会話学校を始めるのだと、意欲満々だった。

とは言うものの、当時私の描いていた学校は、私が一人で細々と教えるという、家庭教師スタイルのものだった。

社長が「どうせやるなら、人を雇って大きくしなさい」と色々とアドバイスをしてくれた。

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年早く帰国していた夫の住む東広島市に、私は来た。

右も左もわからない場所で、一体本当に開業できるのであろうか?と不安になった。

23才で抱いた夢が7年後30才になってようやく、形になろうとしていた。

しかし、よくこんなに回り道をしたものだ。と、自分の不器用さに呆れた。

1995年4月1日に広島県民となり、市場調査や広告手配をし、同年6月6日にBJクラブ英会話は始動した。

これから到来する苦難の日々を想像する事もなく、私は浮かれていた。

27:カナダの結婚式

カナダで働いた3年の間、結婚式に4回出席した。Betty, Nellie, Corinaそして自分の。

会社に二人いる独身男性の一人と、会社に一人いる独身女性の私、その狭き選択肢の中からあえて誕生したカップルだった。

周りの皆は、優しい彼と、自分の夢を自分勝手に追い続ける私の将来を危ぶんだ。しかしその結婚生活は9年間続いた。

カナダの結婚式は、教会での式、披露宴の会場、花、ケーキ、音楽、すべて別々に自分で手配しなければならなかった。

きっとお金を出せば、コーディネーターがしてくれるのだろうけど、私が住んでいた所では自分で全てを準備するのが普通だった。

私は結婚式当日教会に入る迄、感傷に浸る間もなく、苛立っていた。ケーキに花が載っていないだのなんだの、ウエディングドレスを着て、ケーキ屋に乗り込め、とでも言うのであろうか、とにかくバタバタとしていた。

披露宴は大好きなゴルフ場のホールで行った。みんなで飲んで騒いで踊った。

私は「花嫁がよくそんなに食べるな」と言われた。

私も飲んで騒いで踊り、祝宴をおおいに楽しんだ。

ただ、着慣れないウェディングドレスとストッキングが窮屈で仕方なかった。

26:束の間の夢の日々

仕事は3年契約だった。その後延ばす事もあるかもしれないし、日本へ帰ったら本社で働いてもいいと言われていた。

社長をはじめ、日本人社員はみんなが優しくて、私は「さっちゃん」と呼ばれ甘やかされていた。

社長が開くパーティーでは、私は志願してバーテンダーをやった。短大時代に講座に通っていたので腕をふるうチャンスだった。

実はカクテルはあまり好きではないが、なんとなく面白そうだったので習ってみた。そんな意外な所では頑張るのだが、細かい気配りとかはできていなかったな、と今振り返ると反省する事ばかりである。

忙しくない時は、仕事は定時に終わった。最初のうちは剣道をしていたが、そのうちゴルフにはまり、夏は仕事の後ゴルフ場へ直行し、9ホールを回った。誰も一緒に行く人がいない日でも、一人で行ってコースを回った。

それだけやっても、ゴルフの腕は一向に上がらなかった。謙遜ではなく、本当に下手だった。ただ、楽しくて仕方なかった。

ゴルフの会員権は、1年間で4万円くらいだったと思う。それを払っていれば、いつ行っても何度行ってもいいので、格安にゴルフを楽しめた。

学生時代に過ごした極貧生活に比べると、夢のような社会人生活だった。

旅行や食事を楽しんでも、目標開業資金300万円を越える貯金が3年間で達成できた。

贅沢な日々だった。BJクラブ英会話を始める迄は…
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